2010年11月03日
<<エリアごとのポイント説明>>北エリア
<<北エリア>>のご紹介
<Q> QRチェックポイント(◆エイドステーション)
■長浜港 :琵琶湖汽船の遊覧船が発着する。スタートの豊公園のほど近く。
◆湖北みずどりステーション(道の駅) :文字通り水鳥が多く見られる絶景スポット。
■JR永原駅(観光案内所) :絶景スポット海津大崎への入り口に当たる。
<戦Q> 臨時QRチェックポイント(戦国)
■長浜城歴史博物館
■国友鉄砲の郷資料館
■小谷城戦国歴史資料館
<グQ> 臨時QRチェックポイント(グルメ)
■つるや(サラダパン):中身とネーミングに驚く一品です。
■茶しん(ホワイトギョーザ):おいしいです。ギョーザが白いのは当たり前?。
<I> その他、見所やグルメスポット
□姉川古戦場 :姉川沿いに当時の布陣を描いた大きな説明版が立ちます。
□石田会館 :関ヶ原西軍武将石田三成の生誕の地
□曳山博物館 :地域が誇る曳山祭りの様子が良くわかる。曳山の展示もある。
□大通寺 :本願寺の湖北における拠点のひとつ。門前町は今も賑わう。
□鮒ずしケーキ :大通寺門前町「住茂登」で販売。濃厚なチーズケーキのよう。
長浜城:豊臣秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏旧領を拝領し、当時今浜と呼ばれていたこの地を、信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城した。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下からそのまま移しため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城 であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
長浜:中心市街は長浜城の城下町。長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展。市域には戦国時代の史跡が多い。2006年に旧長浜市と浅井町、びわ町が合併。2010年には虎姫町、湖北町と高月町、木之本町、余呉町、西浅井町を編入。人口は大津市と草津市に次ぐ県下第三の都市。
木之本宿:宿には本陣、問屋、伝馬所などが備えられる。昭和初期まで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していた。現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残す。
北国街道:北国街道とは、江戸時代における北陸道の呼称。律令時代の北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線。10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所となる山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。江戸時代になると、畿内から北東に琵琶湖東岸の中山道(律令時代の東山道)を進んで、鳥居本(現在の彦根市鳥居本)または番場(米原)で分岐し、北上して日本海側を縦貫して越後国へ至った。
北国街道脇往還:木之本宿から、名古屋・江戸方面へ向かう旅人が中仙道鳥居本宿を経ず、関ヶ原宿へ向かう近道として賑わった街道で、木之本宿の南端が起点となる。賤ヶ岳の合戦の際には、羽柴秀吉が大垣から木之本間(十三里・約52km)を約5時間で駆けつけ、動揺した柴田勝家軍との戦いに勝利する。この行軍は「大垣大返し」と呼ばれ、山崎の合戦の際の「中国大返し」とともに、秀吉の二大大返しとして有名である。
賤ヶ岳の戦い:天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
姉川の古戦場・小谷城跡: 姉川を挟んで北に陣取る浅井・朝倉連合軍(一万八千人)と南側の織田・徳川連合軍(二万八千人)が元亀元年(1570)六月二十八日、午前五時頃から戦いが始まった。最初優勢だった浅井・朝倉軍だったが徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、午後二時頃浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走した。その後、一時和睦が成立したが、天正元年(1573)八月浅井氏は小谷城において滅んだ。
国友:国友は、戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。村がひとつの工業団地的性格を持ち、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人が居り、分業体制がとられていた。鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)、将軍足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと伝えられる。江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産し、工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。「堺」の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われていた。現在、鉄砲の技術は長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。
以上説明は歴史に偏りますが、自然の景色も最高にいいところです。これからの時期は渡り鳥の飛来や、色づき始めた紅葉も楽しめます。ぜひともお楽しみ下さい。お乗りになる自転車は・・・、お選びに困る方は、細すぎないタイヤのクロスバイクあたりがおすすめでしょうか(写真)。
<Q> QRチェックポイント(◆エイドステーション)
■長浜港 :琵琶湖汽船の遊覧船が発着する。スタートの豊公園のほど近く。
◆湖北みずどりステーション(道の駅) :文字通り水鳥が多く見られる絶景スポット。
■JR永原駅(観光案内所) :絶景スポット海津大崎への入り口に当たる。
<戦Q> 臨時QRチェックポイント(戦国)
■長浜城歴史博物館
■国友鉄砲の郷資料館
■小谷城戦国歴史資料館
<グQ> 臨時QRチェックポイント(グルメ)
■つるや(サラダパン):中身とネーミングに驚く一品です。
■茶しん(ホワイトギョーザ):おいしいです。ギョーザが白いのは当たり前?。
<I> その他、見所やグルメスポット
□姉川古戦場 :姉川沿いに当時の布陣を描いた大きな説明版が立ちます。
□石田会館 :関ヶ原西軍武将石田三成の生誕の地
□曳山博物館 :地域が誇る曳山祭りの様子が良くわかる。曳山の展示もある。
□大通寺 :本願寺の湖北における拠点のひとつ。門前町は今も賑わう。
□鮒ずしケーキ :大通寺門前町「住茂登」で販売。濃厚なチーズケーキのよう。
長浜城:豊臣秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏旧領を拝領し、当時今浜と呼ばれていたこの地を、信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城した。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下からそのまま移しため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城 であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
長浜:中心市街は長浜城の城下町。長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展。市域には戦国時代の史跡が多い。2006年に旧長浜市と浅井町、びわ町が合併。2010年には虎姫町、湖北町と高月町、木之本町、余呉町、西浅井町を編入。人口は大津市と草津市に次ぐ県下第三の都市。
木之本宿:宿には本陣、問屋、伝馬所などが備えられる。昭和初期まで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していた。現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残す。
北国街道:北国街道とは、江戸時代における北陸道の呼称。律令時代の北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線。10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所となる山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。江戸時代になると、畿内から北東に琵琶湖東岸の中山道(律令時代の東山道)を進んで、鳥居本(現在の彦根市鳥居本)または番場(米原)で分岐し、北上して日本海側を縦貫して越後国へ至った。
北国街道脇往還:木之本宿から、名古屋・江戸方面へ向かう旅人が中仙道鳥居本宿を経ず、関ヶ原宿へ向かう近道として賑わった街道で、木之本宿の南端が起点となる。賤ヶ岳の合戦の際には、羽柴秀吉が大垣から木之本間(十三里・約52km)を約5時間で駆けつけ、動揺した柴田勝家軍との戦いに勝利する。この行軍は「大垣大返し」と呼ばれ、山崎の合戦の際の「中国大返し」とともに、秀吉の二大大返しとして有名である。
賤ヶ岳の戦い:天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
姉川の古戦場・小谷城跡: 姉川を挟んで北に陣取る浅井・朝倉連合軍(一万八千人)と南側の織田・徳川連合軍(二万八千人)が元亀元年(1570)六月二十八日、午前五時頃から戦いが始まった。最初優勢だった浅井・朝倉軍だったが徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、午後二時頃浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走した。その後、一時和睦が成立したが、天正元年(1573)八月浅井氏は小谷城において滅んだ。
国友:国友は、戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。村がひとつの工業団地的性格を持ち、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人が居り、分業体制がとられていた。鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)、将軍足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと伝えられる。江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産し、工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。「堺」の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われていた。現在、鉄砲の技術は長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。

<<エリアごとのポイント説明>>東エリア
<<エリアごとのポイント説明>>南エリア
<<エリアごとのポイント説明>>西エリア
自転車で琵琶湖一周のコース紹介⑤ 近江八幡~長浜
自転車で琵琶湖一周のコース紹介④ 瀬田の唐橋~近江八幡
自転車で琵琶湖一周のコース紹介③ 高島~瀬田の唐橋
<<エリアごとのポイント説明>>南エリア
<<エリアごとのポイント説明>>西エリア
自転車で琵琶湖一周のコース紹介⑤ 近江八幡~長浜
自転車で琵琶湖一周のコース紹介④ 瀬田の唐橋~近江八幡
自転車で琵琶湖一周のコース紹介③ 高島~瀬田の唐橋
Posted by 五環生活 at 21:09│Comments(0)
│びわ湖一周のコース紹介