
2010年11月14日
<<エリアごとのポイント説明>>東エリア
来る2010年11月20-21日、琵琶湖一周自転車サイクリングを開催します!参加に関する詳細は以下→http://www.biwako1.jp/modules/event/index.php?smode=Daily&action=View&event_id=0000000012&caldate=2010-10-10 ぎりぎりですが間に合い?ます、お申し込みください。
4)東エリア
<Q>QRチェックポイント(◆エイドステーション)
◆長命寺港(今回はエイドのみ、QRチェックは無し):近江八幡市の湖岸、長命寺の門前。
■能登川水車 :かつて広大な内湖(伊庭内湖)がひろがる。眺めの良い休憩ポイント。
■彦根観光案内所 :国宝彦根城を眺める中堀のそば、前が大型バス駐車場となる観光案内所。
■彦根港 :竹生島めぐりや多景島めぐりなどの琵琶湖周遊の船が発着する。
■近江母の郷 (道の駅) :米原市の琵琶湖沿いにある道の駅。
<戦Q>臨時QRチェックポイント(戦国コース)
□安土城考古博物館:弥生縄文の展示~信長と安土城に関する史料を豊富に展示。
□彦根城博物館:譜代大名筆頭・井伊家に伝わる諸々展示。ひこにゃんも登場。
<その他、要チェックなポイント>
・丁稚羊羹 :竹の皮に包まれたあっさりとした羊羹。八幡掘のちかくの「和た与」が有名。
・たねや :和菓子とバームクーヘンなどの洋菓子で有名。近江八幡と彦根などに店舗がある。
・ひこにゃん :土日の彦根城博物館や天守前広場に登場。市内におみやげ物も多数。
・その他彦根の名物 :湖魚の佃煮、近江牛、お茶の文化と和菓子。
近江八幡城:秀吉の甥にあたる秀次が近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む八幡山に築城した。秀次は若干18歳の青年大名だったが、築城とともに城下町の建設に情熱を注ぎ、安土城下から多くの住民を移住させたという。山麓には琵琶湖から水を引いた八幡堀をめぐらし、これは単に城の堀というだけではなく、運河の役目も果たし、商業の発展を促した。
安土城:織田信長が築いた総石垣、大型の天守を持つ山城。1582年(天正10年)の明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみであるが、遺構からも広大な建造物の様子をうかがい知ることができる。建造当時は郭が内湖に接していたが、昭和の干拓のため、現在は水面からやや離れる。
彦根城:江戸時代に建造された天守が国宝に指定される国宝四城の一つ。通し柱を用いず三層三階地下一階建て、ごぼう積みの石垣で支えられ、華頭窓にさまざまな様式の破風がちりばめられるように配置され、小振りながらも美しい均衡のとれたお城である。同時代のほかのお城と同様、各地のお城からの移築があったという伝承があり、天主は大津城、佐和口多門櫓は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城、太鼓門は観音寺、天秤櫓は長浜城から移築されたと伝えられる。お城と御城下は多くの映画、ドラマの撮影舞台ともなり、近年では「梟の城」、「武士の一分」、「大奥」などの舞台ともなる。
佐和山城:戦国時代後期には浅井氏の支城となり、元亀年間には織田信長に攻められ、変遷を経て秀吉の時代にはには五奉行の一人である石田三成が入城した。三成は大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が 高くそびえたつ近世城郭を築き、人をして「治部少(じぶのしょう。三成のこと)に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。
先週は琵琶湖大橋周辺、今週は安土周辺の下見に行ってまいりました。気持ちの良い、ちょうどよい気候です。20-21の両日、同じように走りやすい天気であることを、切に願いたいところです・・・。

4)東エリア
<Q>QRチェックポイント(◆エイドステーション)
◆長命寺港(今回はエイドのみ、QRチェックは無し):近江八幡市の湖岸、長命寺の門前。
■能登川水車 :かつて広大な内湖(伊庭内湖)がひろがる。眺めの良い休憩ポイント。
■彦根観光案内所 :国宝彦根城を眺める中堀のそば、前が大型バス駐車場となる観光案内所。
■彦根港 :竹生島めぐりや多景島めぐりなどの琵琶湖周遊の船が発着する。
■近江母の郷 (道の駅) :米原市の琵琶湖沿いにある道の駅。
<戦Q>臨時QRチェックポイント(戦国コース)
□安土城考古博物館:弥生縄文の展示~信長と安土城に関する史料を豊富に展示。
□彦根城博物館:譜代大名筆頭・井伊家に伝わる諸々展示。ひこにゃんも登場。
<その他、要チェックなポイント>
・丁稚羊羹 :竹の皮に包まれたあっさりとした羊羹。八幡掘のちかくの「和た与」が有名。
・たねや :和菓子とバームクーヘンなどの洋菓子で有名。近江八幡と彦根などに店舗がある。
・ひこにゃん :土日の彦根城博物館や天守前広場に登場。市内におみやげ物も多数。
・その他彦根の名物 :湖魚の佃煮、近江牛、お茶の文化と和菓子。
近江八幡城:秀吉の甥にあたる秀次が近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む八幡山に築城した。秀次は若干18歳の青年大名だったが、築城とともに城下町の建設に情熱を注ぎ、安土城下から多くの住民を移住させたという。山麓には琵琶湖から水を引いた八幡堀をめぐらし、これは単に城の堀というだけではなく、運河の役目も果たし、商業の発展を促した。
安土城:織田信長が築いた総石垣、大型の天守を持つ山城。1582年(天正10年)の明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみであるが、遺構からも広大な建造物の様子をうかがい知ることができる。建造当時は郭が内湖に接していたが、昭和の干拓のため、現在は水面からやや離れる。
彦根城:江戸時代に建造された天守が国宝に指定される国宝四城の一つ。通し柱を用いず三層三階地下一階建て、ごぼう積みの石垣で支えられ、華頭窓にさまざまな様式の破風がちりばめられるように配置され、小振りながらも美しい均衡のとれたお城である。同時代のほかのお城と同様、各地のお城からの移築があったという伝承があり、天主は大津城、佐和口多門櫓は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城、太鼓門は観音寺、天秤櫓は長浜城から移築されたと伝えられる。お城と御城下は多くの映画、ドラマの撮影舞台ともなり、近年では「梟の城」、「武士の一分」、「大奥」などの舞台ともなる。
佐和山城:戦国時代後期には浅井氏の支城となり、元亀年間には織田信長に攻められ、変遷を経て秀吉の時代にはには五奉行の一人である石田三成が入城した。三成は大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が 高くそびえたつ近世城郭を築き、人をして「治部少(じぶのしょう。三成のこと)に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。
先週は琵琶湖大橋周辺、今週は安土周辺の下見に行ってまいりました。気持ちの良い、ちょうどよい気候です。20-21の両日、同じように走りやすい天気であることを、切に願いたいところです・・・。


2010年11月10日
<<エリアごとのポイント説明>>南エリア
3)南エリア
<Q>QRチェックポイント(◆エイドステーション)
■志賀観光協会
◆大津港
◆守山市岬公園(今回はエイドのみ、QRチェックは無し)
<戦Q>臨時QRチェックポイント(戦国コース)
■湖族の郷資料館
■大津市歴史博物館
<その他、要チェックなポイント>
堅田:堅田は平安時代末期から江戸初期にかけ、琵琶湖最大の自治都市が築かれた所で「堅田千軒」や「諸浦の親郷」と呼ばれた。その端緒は寛治4年(1090)下鴨神社の御厨が置かれたことで、湖魚を献上する代わりにびわ湖の漁業権や通行権などを一手に握り莫大な利益を得た。その時活躍したのが堅田衆(湖族)と呼ばれる人々。豊かな堅田には、美しい風光に魅せられ、また堅田衆を頼り、各時代のヒーロー・ヒロインが往来した。源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、 芭蕉等々。今も町のそこかしには激動の時代に夢を馳せた人々の名残をとどめる史跡が息づいている。
比叡山:京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が鎮座すると記されている。延暦寺が日枝山に開かれて以降、大山咋神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。比叡山延暦寺では、名僧を多数輩出し、今もなお多くの参拝客で賑わう。山麓は門前として賑わいを見せる。
大津京:大津京、または近江宮(おうみのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)とも呼称される。滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。
日本三銘鐘・三井の晩鐘:近江八景「三井の晩鐘」で親しまれている鐘は、古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして慶長7(1602)年、豊臣家による当寺復興の一環として鋳造される。現在も除夜の鐘の行事をはじめ、大津の町々に荘重な調べを届けている。
石山寺:東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。またお寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
瀬田の唐橋:近江八景「瀬田(せた)の夕照(せきしょう)」に描かれていることで有名。瀬田橋(せたばし)あるいは瀬田(せた)の長橋(ながはし)として多くの文学作品に登場する、日本三名橋の一つ。最初に架けられたのは定かではありませんが、日本書紀に登場しているのでかなり古い。昔から、「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都の喉もとを握る交通・軍事の要衝であり、何度も戦乱の舞台となる。現在のように大橋・小橋の形になったのは、織田信長(1534-82)が架け替えてからといわれる。
<Q>QRチェックポイント(◆エイドステーション)
■志賀観光協会
◆大津港
◆守山市岬公園(今回はエイドのみ、QRチェックは無し)
<戦Q>臨時QRチェックポイント(戦国コース)
■湖族の郷資料館
■大津市歴史博物館
<その他、要チェックなポイント>
堅田:堅田は平安時代末期から江戸初期にかけ、琵琶湖最大の自治都市が築かれた所で「堅田千軒」や「諸浦の親郷」と呼ばれた。その端緒は寛治4年(1090)下鴨神社の御厨が置かれたことで、湖魚を献上する代わりにびわ湖の漁業権や通行権などを一手に握り莫大な利益を得た。その時活躍したのが堅田衆(湖族)と呼ばれる人々。豊かな堅田には、美しい風光に魅せられ、また堅田衆を頼り、各時代のヒーロー・ヒロインが往来した。源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、 芭蕉等々。今も町のそこかしには激動の時代に夢を馳せた人々の名残をとどめる史跡が息づいている。
比叡山:京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が鎮座すると記されている。延暦寺が日枝山に開かれて以降、大山咋神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。比叡山延暦寺では、名僧を多数輩出し、今もなお多くの参拝客で賑わう。山麓は門前として賑わいを見せる。
大津京:大津京、または近江宮(おうみのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)とも呼称される。滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。
日本三銘鐘・三井の晩鐘:近江八景「三井の晩鐘」で親しまれている鐘は、古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして慶長7(1602)年、豊臣家による当寺復興の一環として鋳造される。現在も除夜の鐘の行事をはじめ、大津の町々に荘重な調べを届けている。
石山寺:東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。またお寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
瀬田の唐橋:近江八景「瀬田(せた)の夕照(せきしょう)」に描かれていることで有名。瀬田橋(せたばし)あるいは瀬田(せた)の長橋(ながはし)として多くの文学作品に登場する、日本三名橋の一つ。最初に架けられたのは定かではありませんが、日本書紀に登場しているのでかなり古い。昔から、「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都の喉もとを握る交通・軍事の要衝であり、何度も戦乱の舞台となる。現在のように大橋・小橋の形になったのは、織田信長(1534-82)が架け替えてからといわれる。
2010年11月06日
<<エリアごとのポイント説明>>西エリア
<<西エリア>>のご紹介
<Q>QRポイント(◆エイドステーション)
■今津港
■近江高島駅
■琵琶湖周航の歌資料館
◆しんあさひ風車村
◆琵琶湖大橋米プラザ(今回はエイドのみ、QRチェックは無し)
<I>その他、見所やグルメスポット
□奥琵琶湖パークウェー: 18.8kmのドライブコース。雄大なびわ湖の展望。
□海津大崎:海津湾の東に突き出た岩礁地帯。約4km樹齢50年600本の桜並木。
□高島びれっじ:街の再活性化を願い、意欲的なお店が一連の名前で開店する。近江商人の高島商人が築いた、大溝城の城下町。
□白髭神社:湖岸の神社。湖中に朱塗りの大鳥居、161号線をはさんで社殿が立つ。人の営みごと、業ごとすべての導きの神。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。
海津の町並み:町の東部、海津は西近江路と湖上交通の要衝として栄えた宿場町であり港町です。湖岸には、風や波から家を守るために延々と続く石積みが残されており、独特の風景を形成しています。 この石積みは、江戸時代にこの地の代官の西与一左ェ門(にしよいちざえもん)によって作られた古いもので、まるで城壁を思わせる立派なものです。宿場町、港町として栄えた時代を偲ばせるひなびた風景を形成しています。
今津ヴォーリズ資料館:1905年に来日以来、キリスト教伝道を基盤に、メンソレータム(現「メンターム」)で知られる近江兄弟社・近江兄弟社学園・ヴォーリズ記念病院など、建築・実業・教育・医療などの事業を通じて大きな功績を残したウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の人物像と事跡を紹介する。資料館の建物は彼が率いたヴォーリズ建築事務所の設計により1923年に建てられた旧百三十三銀行今津支店で、同じ通りにはやはり ヴォーリズによる日本基督教団今津教会、旧今津郵便局が建ち並ぶ。ヴォーリズ建築事務所が戦時中に解散するまでに設計した建築は全国に、教会・住宅・学校・店舗・社屋などの分野におよぶ約1,500棟。中でも大丸心斎橋店・東華菜館・関西学院大学・神戸女学院・同志社大学などが有名だが、琵琶湖周辺では 今津以外にも、彼の本拠地だった近江八幡をはじめ、大津・草津・水口・彦根・豊郷・米原・堅田などで現在も活用されている。
針江地区の川端(かばた):琵琶湖へ流れる小川を各家庭まで引き込み、湧き水を組み合わせて生活に利用するというもの。自然を取り込み暮らしに活かし、かつそこで一緒に大事にするというコミュニティーとのつながりや、今もなお続くという継続性に注目が集まる。
比良山:琵琶湖西方に位置する県を代表する連峰。琵琶湖と対照的な、季節ごとに色を変える美しさを見せ、古くは万葉集に登場したり、「比良の暮雪(ぼせつ)」として近江八景の1つにも数えられる。登山・ハイキングなどでも人気を集める。秋には全山が紅葉で染めあげられ、また、春先には、比良八荒(ひらはっこう)と呼ばれる地域独特の風が吹く。比良八荒とは、琵琶湖上と比良山地の温度差によって生じた風が、突発性の季節風となって吹き荒れる局地風のことです。
歴史や町並みもさることながら、実際景色の美しいところです。この時期すっきりとした空が気持ちの良い、開放感の感じる景色です。ぜひこの「感じ」を体感下さい。
<Q>QRポイント(◆エイドステーション)
■今津港
■近江高島駅
■琵琶湖周航の歌資料館
◆しんあさひ風車村
◆琵琶湖大橋米プラザ(今回はエイドのみ、QRチェックは無し)
<I>その他、見所やグルメスポット
□奥琵琶湖パークウェー: 18.8kmのドライブコース。雄大なびわ湖の展望。
□海津大崎:海津湾の東に突き出た岩礁地帯。約4km樹齢50年600本の桜並木。
□高島びれっじ:街の再活性化を願い、意欲的なお店が一連の名前で開店する。近江商人の高島商人が築いた、大溝城の城下町。
□白髭神社:湖岸の神社。湖中に朱塗りの大鳥居、161号線をはさんで社殿が立つ。人の営みごと、業ごとすべての導きの神。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。
海津の町並み:町の東部、海津は西近江路と湖上交通の要衝として栄えた宿場町であり港町です。湖岸には、風や波から家を守るために延々と続く石積みが残されており、独特の風景を形成しています。 この石積みは、江戸時代にこの地の代官の西与一左ェ門(にしよいちざえもん)によって作られた古いもので、まるで城壁を思わせる立派なものです。宿場町、港町として栄えた時代を偲ばせるひなびた風景を形成しています。
今津ヴォーリズ資料館:1905年に来日以来、キリスト教伝道を基盤に、メンソレータム(現「メンターム」)で知られる近江兄弟社・近江兄弟社学園・ヴォーリズ記念病院など、建築・実業・教育・医療などの事業を通じて大きな功績を残したウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の人物像と事跡を紹介する。資料館の建物は彼が率いたヴォーリズ建築事務所の設計により1923年に建てられた旧百三十三銀行今津支店で、同じ通りにはやはり ヴォーリズによる日本基督教団今津教会、旧今津郵便局が建ち並ぶ。ヴォーリズ建築事務所が戦時中に解散するまでに設計した建築は全国に、教会・住宅・学校・店舗・社屋などの分野におよぶ約1,500棟。中でも大丸心斎橋店・東華菜館・関西学院大学・神戸女学院・同志社大学などが有名だが、琵琶湖周辺では 今津以外にも、彼の本拠地だった近江八幡をはじめ、大津・草津・水口・彦根・豊郷・米原・堅田などで現在も活用されている。
針江地区の川端(かばた):琵琶湖へ流れる小川を各家庭まで引き込み、湧き水を組み合わせて生活に利用するというもの。自然を取り込み暮らしに活かし、かつそこで一緒に大事にするというコミュニティーとのつながりや、今もなお続くという継続性に注目が集まる。
比良山:琵琶湖西方に位置する県を代表する連峰。琵琶湖と対照的な、季節ごとに色を変える美しさを見せ、古くは万葉集に登場したり、「比良の暮雪(ぼせつ)」として近江八景の1つにも数えられる。登山・ハイキングなどでも人気を集める。秋には全山が紅葉で染めあげられ、また、春先には、比良八荒(ひらはっこう)と呼ばれる地域独特の風が吹く。比良八荒とは、琵琶湖上と比良山地の温度差によって生じた風が、突発性の季節風となって吹き荒れる局地風のことです。

2010年11月03日
<<エリアごとのポイント説明>>北エリア
<<北エリア>>のご紹介
<Q> QRチェックポイント(◆エイドステーション)
■長浜港 :琵琶湖汽船の遊覧船が発着する。スタートの豊公園のほど近く。
◆湖北みずどりステーション(道の駅) :文字通り水鳥が多く見られる絶景スポット。
■JR永原駅(観光案内所) :絶景スポット海津大崎への入り口に当たる。
<戦Q> 臨時QRチェックポイント(戦国)
■長浜城歴史博物館
■国友鉄砲の郷資料館
■小谷城戦国歴史資料館
<グQ> 臨時QRチェックポイント(グルメ)
■つるや(サラダパン):中身とネーミングに驚く一品です。
■茶しん(ホワイトギョーザ):おいしいです。ギョーザが白いのは当たり前?。
<I> その他、見所やグルメスポット
□姉川古戦場 :姉川沿いに当時の布陣を描いた大きな説明版が立ちます。
□石田会館 :関ヶ原西軍武将石田三成の生誕の地
□曳山博物館 :地域が誇る曳山祭りの様子が良くわかる。曳山の展示もある。
□大通寺 :本願寺の湖北における拠点のひとつ。門前町は今も賑わう。
□鮒ずしケーキ :大通寺門前町「住茂登」で販売。濃厚なチーズケーキのよう。
長浜城:豊臣秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏旧領を拝領し、当時今浜と呼ばれていたこの地を、信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城した。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下からそのまま移しため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城 であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
長浜:中心市街は長浜城の城下町。長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展。市域には戦国時代の史跡が多い。2006年に旧長浜市と浅井町、びわ町が合併。2010年には虎姫町、湖北町と高月町、木之本町、余呉町、西浅井町を編入。人口は大津市と草津市に次ぐ県下第三の都市。
木之本宿:宿には本陣、問屋、伝馬所などが備えられる。昭和初期まで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していた。現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残す。
北国街道:北国街道とは、江戸時代における北陸道の呼称。律令時代の北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線。10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所となる山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。江戸時代になると、畿内から北東に琵琶湖東岸の中山道(律令時代の東山道)を進んで、鳥居本(現在の彦根市鳥居本)または番場(米原)で分岐し、北上して日本海側を縦貫して越後国へ至った。
北国街道脇往還:木之本宿から、名古屋・江戸方面へ向かう旅人が中仙道鳥居本宿を経ず、関ヶ原宿へ向かう近道として賑わった街道で、木之本宿の南端が起点となる。賤ヶ岳の合戦の際には、羽柴秀吉が大垣から木之本間(十三里・約52km)を約5時間で駆けつけ、動揺した柴田勝家軍との戦いに勝利する。この行軍は「大垣大返し」と呼ばれ、山崎の合戦の際の「中国大返し」とともに、秀吉の二大大返しとして有名である。
賤ヶ岳の戦い:天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
姉川の古戦場・小谷城跡: 姉川を挟んで北に陣取る浅井・朝倉連合軍(一万八千人)と南側の織田・徳川連合軍(二万八千人)が元亀元年(1570)六月二十八日、午前五時頃から戦いが始まった。最初優勢だった浅井・朝倉軍だったが徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、午後二時頃浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走した。その後、一時和睦が成立したが、天正元年(1573)八月浅井氏は小谷城において滅んだ。
国友:国友は、戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。村がひとつの工業団地的性格を持ち、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人が居り、分業体制がとられていた。鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)、将軍足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと伝えられる。江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産し、工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。「堺」の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われていた。現在、鉄砲の技術は長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。
以上説明は歴史に偏りますが、自然の景色も最高にいいところです。これからの時期は渡り鳥の飛来や、色づき始めた紅葉も楽しめます。ぜひともお楽しみ下さい。お乗りになる自転車は・・・、お選びに困る方は、細すぎないタイヤのクロスバイクあたりがおすすめでしょうか(写真)。
<Q> QRチェックポイント(◆エイドステーション)
■長浜港 :琵琶湖汽船の遊覧船が発着する。スタートの豊公園のほど近く。
◆湖北みずどりステーション(道の駅) :文字通り水鳥が多く見られる絶景スポット。
■JR永原駅(観光案内所) :絶景スポット海津大崎への入り口に当たる。
<戦Q> 臨時QRチェックポイント(戦国)
■長浜城歴史博物館
■国友鉄砲の郷資料館
■小谷城戦国歴史資料館
<グQ> 臨時QRチェックポイント(グルメ)
■つるや(サラダパン):中身とネーミングに驚く一品です。
■茶しん(ホワイトギョーザ):おいしいです。ギョーザが白いのは当たり前?。
<I> その他、見所やグルメスポット
□姉川古戦場 :姉川沿いに当時の布陣を描いた大きな説明版が立ちます。
□石田会館 :関ヶ原西軍武将石田三成の生誕の地
□曳山博物館 :地域が誇る曳山祭りの様子が良くわかる。曳山の展示もある。
□大通寺 :本願寺の湖北における拠点のひとつ。門前町は今も賑わう。
□鮒ずしケーキ :大通寺門前町「住茂登」で販売。濃厚なチーズケーキのよう。
長浜城:豊臣秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏旧領を拝領し、当時今浜と呼ばれていたこの地を、信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城した。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下からそのまま移しため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城 であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
長浜:中心市街は長浜城の城下町。長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展。市域には戦国時代の史跡が多い。2006年に旧長浜市と浅井町、びわ町が合併。2010年には虎姫町、湖北町と高月町、木之本町、余呉町、西浅井町を編入。人口は大津市と草津市に次ぐ県下第三の都市。
木之本宿:宿には本陣、問屋、伝馬所などが備えられる。昭和初期まで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していた。現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残す。
北国街道:北国街道とは、江戸時代における北陸道の呼称。律令時代の北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線。10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所となる山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。江戸時代になると、畿内から北東に琵琶湖東岸の中山道(律令時代の東山道)を進んで、鳥居本(現在の彦根市鳥居本)または番場(米原)で分岐し、北上して日本海側を縦貫して越後国へ至った。
北国街道脇往還:木之本宿から、名古屋・江戸方面へ向かう旅人が中仙道鳥居本宿を経ず、関ヶ原宿へ向かう近道として賑わった街道で、木之本宿の南端が起点となる。賤ヶ岳の合戦の際には、羽柴秀吉が大垣から木之本間(十三里・約52km)を約5時間で駆けつけ、動揺した柴田勝家軍との戦いに勝利する。この行軍は「大垣大返し」と呼ばれ、山崎の合戦の際の「中国大返し」とともに、秀吉の二大大返しとして有名である。
賤ヶ岳の戦い:天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
姉川の古戦場・小谷城跡: 姉川を挟んで北に陣取る浅井・朝倉連合軍(一万八千人)と南側の織田・徳川連合軍(二万八千人)が元亀元年(1570)六月二十八日、午前五時頃から戦いが始まった。最初優勢だった浅井・朝倉軍だったが徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、午後二時頃浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走した。その後、一時和睦が成立したが、天正元年(1573)八月浅井氏は小谷城において滅んだ。
国友:国友は、戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。村がひとつの工業団地的性格を持ち、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人が居り、分業体制がとられていた。鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)、将軍足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと伝えられる。江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産し、工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。「堺」の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われていた。現在、鉄砲の技術は長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。

2010年11月02日
自転車で琵琶湖一周のコース紹介⑤ 近江八幡~長浜
近江八幡から彦根までの道は、湖岸のみだとともすれば単調で、眠気を誘う部分ではありますが、時間のある方は、少し中に入って安土やその周辺の内湖を走ってみてください。歴史と景観の変化に感動するところであります。例えば西の湖周辺の道から入ると入りやすいです…。
近江八幡市内の水郷めぐりは、西の湖という内湖につながり、その内湖は隣接する安土内湖と伊庭内湖でもって安土城の安土山に接し、水辺の変化豊かな景観をなしておりました。今地形として残るのは西の湖のみですが、西の湖から安土城へは、サイクリングロードの整備があり、今もなお、往時の風景を想像しながら走ることができます。歴史好きには必見の道だと思います。
安土城周辺では、もちろんお城に登るのがもっともお勧めですが、時間が、時間がほしいです…。東側からまっすぐ上る大手の左右には、名だたる武将の邸宅跡もあり、登り応えのあるお城です。また観音寺城のあったきぬがさ山に近い方には安土城考古博物館、安土城天主「信長の館」等があり、忘れては困るのですが、時間を忘れるいいところが集中しております。
安土城をぐるっと周り、再び湖岸方向へ進むと、今度は伊庭内湖や大中内湖の埋め立てられてあたりを通ります。そこには大きな水車が回る「能登川水車」などもあり、休憩所も整備されていてゆっくりとできます。水鳥や水辺の動植物の観察にも最適です。
このあたりから再び湖岸道路に入ると、のどやかに真っ直ぐ伸びる道に思わず眠気に襲われますが、この道では目を覚ましてくれるダイナミックなスポーツを目にすることがあります。ひとつは内湖の埋立地でよく目にする「気球」、そして湖岸沿いでは風を受けて滑走する「カイトサーフィン(またはカイトボード)」、そして荒神山を離陸ポイントとする「ハンググライダー」です。思わず走りながら注視してしまいますが、余所見運転は厳禁です。立ち止まってゆっくりと鑑賞ください。
眠気を振り切って彦根に入ると、やがて小さな山の上に端整に鎮座する彦根城を見にすることができます。湖岸道路からは程近いので、周辺には昔ながらの街並みや道(ぎざぎざ進んで真っ直ぐでない!)も見られるので、時間があれば、立ち寄られることをお勧めします。
彦根から長浜までの道のりは、迷うこともなく、湖岸の自転車通行可の歩道も通りやすく、ところどころに公園やトイレ、そして道の駅もあり走りやすいです。ただ、風が強い日は閉口ですが。春先にお花見サイクリングを企画したときは、波しぶきがかかるくらい強い風のときがあり、そのときは内陸の道に迂回しました。
以上でほぼ一周の道の説明を行いましたが、書ききれないまだまだいいところがたくさんあります。ぜひ、ご自身の足で走って、ご自身の五感で体感して感動してください。
写真は湖岸からずっと内陸に入ったところですが、最近の高い空のくもに誘われて、休みの日に子どもを保育園に送った後、走った近所の道です。練習にちょうど良い道と気候でした…。

近江八幡市内の水郷めぐりは、西の湖という内湖につながり、その内湖は隣接する安土内湖と伊庭内湖でもって安土城の安土山に接し、水辺の変化豊かな景観をなしておりました。今地形として残るのは西の湖のみですが、西の湖から安土城へは、サイクリングロードの整備があり、今もなお、往時の風景を想像しながら走ることができます。歴史好きには必見の道だと思います。
安土城周辺では、もちろんお城に登るのがもっともお勧めですが、時間が、時間がほしいです…。東側からまっすぐ上る大手の左右には、名だたる武将の邸宅跡もあり、登り応えのあるお城です。また観音寺城のあったきぬがさ山に近い方には安土城考古博物館、安土城天主「信長の館」等があり、忘れては困るのですが、時間を忘れるいいところが集中しております。
安土城をぐるっと周り、再び湖岸方向へ進むと、今度は伊庭内湖や大中内湖の埋め立てられてあたりを通ります。そこには大きな水車が回る「能登川水車」などもあり、休憩所も整備されていてゆっくりとできます。水鳥や水辺の動植物の観察にも最適です。
このあたりから再び湖岸道路に入ると、のどやかに真っ直ぐ伸びる道に思わず眠気に襲われますが、この道では目を覚ましてくれるダイナミックなスポーツを目にすることがあります。ひとつは内湖の埋立地でよく目にする「気球」、そして湖岸沿いでは風を受けて滑走する「カイトサーフィン(またはカイトボード)」、そして荒神山を離陸ポイントとする「ハンググライダー」です。思わず走りながら注視してしまいますが、余所見運転は厳禁です。立ち止まってゆっくりと鑑賞ください。
眠気を振り切って彦根に入ると、やがて小さな山の上に端整に鎮座する彦根城を見にすることができます。湖岸道路からは程近いので、周辺には昔ながらの街並みや道(ぎざぎざ進んで真っ直ぐでない!)も見られるので、時間があれば、立ち寄られることをお勧めします。
彦根から長浜までの道のりは、迷うこともなく、湖岸の自転車通行可の歩道も通りやすく、ところどころに公園やトイレ、そして道の駅もあり走りやすいです。ただ、風が強い日は閉口ですが。春先にお花見サイクリングを企画したときは、波しぶきがかかるくらい強い風のときがあり、そのときは内陸の道に迂回しました。
以上でほぼ一周の道の説明を行いましたが、書ききれないまだまだいいところがたくさんあります。ぜひ、ご自身の足で走って、ご自身の五感で体感して感動してください。
写真は湖岸からずっと内陸に入ったところですが、最近の高い空のくもに誘われて、休みの日に子どもを保育園に送った後、走った近所の道です。練習にちょうど良い道と気候でした…。


